やさしい自然体

 

 

 

「抵抗がないこと」それは優しい安らぎを あなたの人生にもたらしてくれます。

 

 

 

長い間の私達の現実の受け止め方は、外側に焦点をあてる事から、始まっていましたね。

 

 

 

起こってきた現実を見ては、落ち込み、困った事が起これば、なんとかしなければと、対処に忙しく走り回り、私達はとても疲れています。

 

 

 

しかし、その疲れがあることが慢性的になっていて、それがあることじたいが すでに当たり前になっています。

 

 

 

だから、どうして疲れているのか、どうして現代人にストレスがあるのか、すでにわからなくなっていますね。

 

 

私が聖なる母性と出会い、内側にある世界を大事にし始めた時、精神世界を伝える情報では当時、

 

「自分を信じましょう」というメッセージがよく語られていました。

 

 

本当にそうですよね。それは、とても大事なことですよね。

すべては、自分を信じてあげる事から、自分を通して創造が始まりますから。

 

 

でも、私はそれに加えて、いつももうひとつの光の重要性を感じていました。

 

 

それは、「自分を信じることは、もちろんとても重要だけど、それに加えて、時には あたたかくやさしい使い方で「自分を疑ってあげること」も時には、とても必要ではないかと。

 

自分を愛の自然体に戻す為に、時にはやさしく「疑い」の力を使ってあげると、自分に無意識にかけていたたくさんの思い込みや限定の枠がとれて、ぐんぐん人生が楽になることを経験していたからです。

 

 

 

例えば、外を見て、怒りを覚えたり、お人を批判したくなってしまうことが、私達にはありますね。

 

 

 

 

「なんで、あの人はああなのかしら?」

「なんで、こうできないのかしら」と、誰かの行動によって、嫌な思いになる、そんな事があります。

 

 

 

そんな時、やさしく立ち止まってあげられたら、自分をせまくして止めていたものを、気持ちよくはずしてあげられて、それができたらその後は、本当に望んでいた嬉しい現実がぐんぐん動き出してくるのです。

 

 

自分の思い込みや制限をはずす事は、自分の可能性にOKを出すことであり、

 

 

 

自分を自由に解き放つことなのですね。

 

 

 

そう、例えば、自分以外の誰かの行動に腹をたててしまったり、許せないと嫌な気持ちになるのは、実は相手は関係がないんですよね。

 

 

 

自分が嫌な思いになるのは、こちらの心の中に 、

 

「正しいこと」という思い込みがあるからなんです。

 

 

本来はこうであるはず、これが正しい、なのにあの人は違うと 心で裁いてしまい、それが自分の不快感の元なんです。

 

 

 

でも、誰かに腹をたててしまってる自分の心さんは、実は自分が正しさの上に立っていると気づいてはいないのです。

 

 

 

それが、世界の軸だと思っています。間違っているのは、相手であって、自分じゃないという思いこみから、エネルギーがスタートしているんですね。

 

 

 

こんな時、宇宙の愛の法則は優しいです。

 

違っていますよと、波動の違いを「不快感」によって教えてくれます。

 

 

 

つまり、幸せな気持ちやあたたかい気持ちを感じずに、腹をたてたり、不快になるのは、そもそも「違いますよ」のサインなのですから、

 

 

私は、疑いをあたたかい使い方で使わせて頂くようにしています。

 

 

 

「もしかしたら、私が間違っているかもしれない。」

「もしかしたら、答えはひとつじゃないかもしれない。」

 

 

 

 

そう立ち止まってあげると、ふっとなにかがはずれて、楽になるのです。

 

 

 

 

 

 

ストレスは、スムーズさが遮られた時に生じます。

 

 

苦しみは、「抵抗」がある所に生じます。

 

 

苦しいのは、そこに「抵抗」があるからです。

 

 

あれ?今自分は優しい顔じゃないと、力が入っていることに気づいたら、もしかしたらその根底には、「正しさ」に固執している自分さんがいるのかもしれません。

 

 

 

聖母意識は、

正しさより、幸福感。

正しさより、あたたかさが大切だと教えてくれました。

 

 

正しさを、こちらが正しいと こだわれば、それが真理であっても醜さがでてしまうから、

 

 

大切なのは、やさしくつつみこむ大きな心を用意して、私の答えも素敵だけど、あなたの答えも とても素敵ですねと、あたたかい心でほほえみあえたなら、その波動の幸福感こそ、宇宙に共鳴する心なのだと 教えてくれました。

 

 

 

共にほほえみあうのに、「答え」が同じである必要はないのです。

 

 

 

ただ、相手を認められるという安らぎがあれば、それでいいのです。

 

 

「答えはひとつでなければならない」という思いこみから、優しく手を離して、違っていていい、でも私の答えはこうね、そしてあなたの答えはそうなんですねと、互いが掴んだお花の違いを認めて、やわらかく受け止めてあげられたなら、

 

 

私達の中から、抵抗は消えてゆきます。

 

 

相手も、自分もまるごと、つつみ受け止めてゆきます。

 

 

相手のことも、自分のことも、裁かないこと。

 

 

 

それは、いのちにとって、究極のリラクゼーションです。

 

 

 

あたたかく ほどけて、広がる力になるのです。

 

その心で、応答する時、私達は、宇宙を受け入れる共鳴体になりますから、どんどん偶然の一致など導きが頻繁に入るようになるでしょう。

 

 

 

裁かないでいられる。

「違いをせめる必要なんてないんだ 」それに、気づくことは、自分の内側をすう~と、やわらかく優しくしてしまいます。

 

 

それほど、自分を自然に戻す力はありません。

 

 

 

違っていても、大丈夫。

優しい宇宙エネルギーはいつも、違っていても、幸せを取りあいせずに、互いがこの上もない程に 幸せになるのに必要な、宇宙エネルギーは、充分存在しているのですから。

 

 

私達は、私達のままで幸せになれるのです。